新たな"エモ"を探る I: ~そうして僕らは分かれた道を~

"エモ (Emo) は、ロックの形態の一種である。
英語での発音は「イーモウ」。精神的・音楽的にハードコアにルーツを持つことから、エモーショナル・ハードコアと呼ばれることもある。"
 Wikipedia

この定義は極めて美しくない、いや、"エモ"くないものであると、どこか筆者は感じてやまない。どこか、納得がいっていない。どこか、得心がいかない。

長きに渡りアメリカを喰らい、それだけに留まらず世界を侵食し続けるこのエモ・ディフィニションであるが、この定義、果たして本当に"エモ"いのだろうか?
我々は与えられた定義の中でしか"エモ"れないのか?いや、"エモ"とは? ...破壊と創造、-Re-Emotion- また一歩、踏み出す時である。


注意(要反転): 久々のネタ記事です。どうぞ温かい目でご覧ください。あとシラフです。








我々の使命、それは神殺-KAMIGOROSHI-


上記の定義はそう、現代神Wikipediaからの抜粋ではあるのだが、神もまた過ちを犯すモノ、全知全能ではないモノという揺るぎない証明でもあり、定義でもある。
エモは"エモ"足りえない… そこでまずは、こちらをご覧いただきたい。



彼らは0というプロジェクトであり、フランスの現代音楽家たちによって構成されている。つまり、彼らの源泉はロックではないということだ。
一見、いわゆるエモとは何ら関係のない彼ら。だがここで、画面後方で鉄琴を優しく、しかし巧みに操っている彼に注目してみてほしい。















鉄琴の脚の高さと彼の背丈が合っていないのである。

ゆえに彼はやたらな前傾姿勢を強いられているではないか。なんとも奏でにくそうである。演奏中の渋い顔を創り出している理由はここにあるのだろう。
そしてそのあまりのミスマッチぶりに隣の男性は顎に手をついている始末。とてもツッコミたそうにしている。いや、床と鉄琴の間に何か突っ込みたいのかもしれない。
悶々とした時間を過ごしたためか、0の演奏後には申し訳程度に膝下で拍手をしている始末。何をしに来たのだろうか。

しかしここで周りを見渡すと、また新たな憧憬が見え隠れする。そのツッコミボーイの隣にいる女性、これが彼のパートナーなのだろうということだ。
ツッコミボーイもガールフレンドの頼みとあって断れず、彼女に一緒に行こうと言われ来てみたものの、そこにはまったく予期せぬ世界が広がっていたわけだ。


こうした構図、いや人生の縮図を垣間見たとき、何かふつふつと湧き起こってくる「何か」がないだろうか。それこそが、筆者の思う"エモ"なのである。









我々の使命、それは神創-KAMITSVKVRI-

このように、現代神Wikipediaですら計り知れない、定義しきれない可能性が、"エモ"にはある。我々はその可能性を、として開拓していく必要があるのだ。

今後、新たなあなたが思う"エモ"と出会った時、是非とも著者のメールアドレス、 emo_ippai.god[at]emhoo[dot]jp まで連絡の方を願いたい。

それでは、また次に"エモ"る日まで。




                       2014年2月22日 五条隆志